人は、愛する人から愛されたい。
親なら子どもに。子どもなら親に。夫なら妻に。妻なら夫に。
「そんなもの期待しなければ楽になる」と言われても、たぶん、そんなに簡単じゃない。
愛を育むことを前提にした関係には、相手からも愛されたいという願いが、最初から組み込まれているからです。
私は最近、それを「呪い」のようなものだと思っています。
夫婦関係だけじゃなく、親子関係や友達関係にも、それぞれ呪いみたいなものがあるんじゃないでしょうか。
3年前の私なら「呪いなんかじゃない!」と否定したはずです。
そう拒絶したくなるくらい、同じ悩みを抱えている人に、少しでも何かのヒントになればいい。そう思って、ここに書いてみます。
愛されたい気持ちは呪い
以前、このブログで、セックスレスから考えた「成人思春期」(勝手に名付けました)の乗り越え方について書きました。
相手にどう思われるか疑心暗鬼になったり、相手をコントロールしようとしたりするのではなく、自分を磨いて「惚れられるキャラ」になること。そう書きました。
でも、どうしたって、愛する人からは惚れられない。努力すればするほど、空回りする。
相手は、拒絶することで自分を守っている場合もあるのかもしれません。
たとえば、愛されたい相手が素直に「あなたのそういうところが嫌だった」と打ち明けてくれたとします。
こちらはそれを直そうとする。相手の気持ちを理解しようとする。もっと優しくしよう、もっと話を聞こう、自分の悪かったところを見つめ直そうとする。
それでも、拒絶はなくならない。
本当に問題だったのが「そこ」なのかどうかは、相手自身にもわからないことがあるからです。
それどころか、もし相手がこちらと向き合って、自分の気持ちを一つひとつ言葉にしていったら、
「自分の見方にも偏りがあったかもしれない」
「全部この人が悪かったわけではないのかもしれない」
「自分も傷つけていたのかもしれない」
そんな、自分にとって都合の悪いものまで見えてしまうかもしれない。
それを無意識に避けているのか、「たまには二人でゆっくりランチしない?」という誘いにも、返事はありませんでした。(単純に嫌われているだけかもしれませんが)
人は自分を守るために、「見ない」「話さない」「関わらない」という選択をすることがあります。
だとしたら、こちらがどれだけ努力しても、その扉を外側から開けることはできない。
そして私は長い間、その開かない扉の前で考え続けていました。
「もっと努力すれば開くんじゃないか」
「自分の何かが足りないんじゃないか」
たぶん、ここにも一つの「呪い」がありました。
これは私の夫婦関係の話ですが、似たようなことを抱えている人は多いんじゃないでしょうか。
認めてもらいたい。褒めてもらいたい。愛してもらいたい。
本当に、苦しいですよね。努力すればするほど、空回りする。
呪いと生きがいは紙一重
悩みながら3年が経ったころ、ある映画に出会いました。SNSでたまたまおすすめに出てきた、『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』です。
音響も演出も最高です。私が観たときは、Amazonプライム・ビデオで観られました。
(まだ観ていない人が観たくなるように、結末には触れずに書きます)
主人公は20代くらいのドラマーの男性。互いに依存し合う関係だった恋人と、キャンピングカーでバンド生活をしていたある日、突然、耳が聞こえなくなってしまいます。
必死に聴力を取り戻して、元の生活に戻りたい。もがいて、あがいて、怒り、悲しみ、絶望する。
聴力を突然失う恐怖が、演技と音と演出で、手に取るように伝わってきました。
私自身、リハビリの仕事をしています。一度失われた機能を取り戻したい、という気持ちはよくわかります。でも、一度壊れたら二度と戻らないものもある。
この映画は、「大変だったね、つらいね」というところから再起する話ではありません。スポ根でも、リハビリの物語でもない。
描かれているのは、依存し合っていた恋人との関係の変化です。聞こえなくなったからこそ、互いの依存が断ち切れた。「呪い」のような関係が切れた……ように、私には観えました。
そこで思ったんです。
もし物語が始まらず、そのままずっと聞こえていたら?
そっちの方が、ぞっとしませんか。
もちろん、聞こえていれば苦しまずに済みます。でも、それは幸せなのか。
自分の人生のコントロールを、相手に預けたままでいることは幸せなのか。
本当の心の穏やかさとは。本当の静寂とは。
聞こえたまま「呪い」の依存関係の中にいるのは、偽りの静寂なんじゃないか。
ここに、この物語の核があると思います。もっと言えば、私たち自身の人生という物語の核でもある。
私たちは、それぞれの場所で少なからず「役割」に縛られています。でも一方で、その「役割」は使命という生きがいにもなる。
ここが難しいところです。
「呪い」が「生きがい」に化けることがある。そしてそれは、人生のステージや状況で、くるりと入れ替わる。
恋愛なんて、まさにそうかもしれません。燃え上がるような恋をして、結婚して、年を重ねたら恋も冷めて、「愛を誓い合ったはずなのに?」となる。それをある人は「呪い」のように感じ、別のある人は「使命」のように感じる。
何を信じたらいいのか。何を基準にしたらいいのか。
もがくことから降りた先の静寂
愛されたい人から愛してもらうことが、基準なのか。
違う。
自分の人生の舵を取るのは自分です。それを相手に握らせてはいけない。
じゃあ、離婚すれば解決するのか。一人になって、相手を忘れればいいのか。
もちろん、それが必要な人もいると思います。でも、少なくとも私がたどり着いた答えは、「相手との関係を切れば自由になれる」という単純なものではありませんでした。
ずっと満たされたままでいようとすること自体が、幻想なのかもしれない。
人生は、相手があってこそのもの。全部をコントロールすることなんてできません。
でも、少なくとも自分自身が、怒りや絶望に任せて、本当は大切にしたかった未来の可能性を消してしまう必要はない。
私にできるのは、その選択肢を残すように生きることだけです。
『サウンド・オブ・メタル』のように、誰も何も悪くないのに、突然、選択肢を削ぎ落とされることもあります。
そりゃあ、つらい。不幸だと思うし、絶望もする。
そして、「元に戻りたい」「取り戻したい」という思いに縛られていく。そこからまた、新しい「呪い」が生まれる。
じゃあ、起きる前に戻れるのか。全部修復して、元通りになるのか。
なりません。
私が妻に嫌われるようになった理由も、本当のところはわかりません。私に悪かったところも、きっとあったのだと思います。
もちろん、直せるものは直します。でも、過去に戻ってやり直すことはできない。以前書いた「成人思春期の乗り越え方」のような、スキルで解決できるものでもない。努力でどうにもならないことだってある。
よく言われる「過去は変えられないけど、未来は変えられる」というのは、こういうことなのだと思います。
「呪い」は消せません。解けません。
でも、縛られずに生きることはできる。
どうにもならないものを、どうにかしようともがき続けることから降りたとき。そこに訪れるのが、本当の「静寂」なのかもしれません。

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