第二章 人生において本当の死とは

生きる意味とは

生きる目的を知る上で「死」を知らないと動けなさそうです。

本当の死とは何なのか?肉体が朽ちるから死ではないことは確実に言えます。

老人ホームの「早く死にたい」という88歳の女性の話から紐解きます。どうぞ。

▼ 第二章 人生において本当の死とは

息をしていない。心臓が止まる。脳が活動していない。
 
 
死の定義は医学的にあるけれど、身体的活動が成されていれば死んでいないかというとそれは違う。
 
 
「早く死にたい」
 
 
そういう声って実は老人ホームでたくさん、本当にたくさん聞くんです。
 
 
老人ホームの職員は(元自分も含めて)マヒっているので、
「そんなこと言わずに元気でいてくださいよ~。」とかなんとか言いますが、
真面目にその人のことを考えたら“安楽死”を認めてほしいケースだっていっぱいある。

尊厳死は、延命治療を施さずに自然な最期を迎えることであり、
安楽死は人為的に寿命を短くさせることであり、日本では犯罪とされます。

https://www.solasto.co.jp/company/solastoonline/toprunner-5.htmlより引用

なんで「早く死にたい」のだろう?
 
 
 
歩けないから?
 
 
介護を受けているから?
 
 
お金がないから?
 
 
 
生きるって苦しい。
なんで?
 
 
 
実際に私が出会った88歳の女性のお話し。
その方は老人ホームに入所されて5年。
 
 
移動は車いす。
 
 
喋ることは出来るけど、認知症が中程度あって、
意識がはっきりしている時としていない時があって。
 
 
って。言葉にすれば一文だけど、自分がどこで何をしていたか思い出せなく、
今自分がどこにいるか分からないなんて半端じゃなく不安じゃない?
 
 
「ここはどこ?」
 
 
「なんでここにいるの?」
 
 
バトルロワイヤルで修学旅行のバスの途中、睡眠ガスで眠らされ起きたら無人島に連れてこられた状況だったり、
海外ドラマのように気づいたら知らない人たちと同じ部屋の中に閉じ込められている状況のようなもの。
 
 
  
あれがリアルで自分の身に降りかかってくる。
しかも何度も何度も!!
 
 

めちゃくちゃ怖くないですか?!
 
 
逃げようにも身体が不自由。
なぜかオムツを履かされている。
トイレに行こうにも行けない。
 
 
いきなり寝かせられてズボンを下ろされる。
(もちろん、施設側はトイレ介助しなきゃですから)
 
 
抵抗しようものなら軽く拘束される。
 
 
 
私がリハビリに入ると毎回言うんです。
「ねぇ。家に連れて行ってもらえませんか?」
「早く死にたい」
 
 
 
どうですか?
 
 
辛くないですか?
 
 
それは死にたくなりませんか?
 
 
これに輪をかけて、この方は生活保護を受けていて、家族もほぼ面会に来ない。
なんでそんな人生の末路になってしまったのか、聞くことはできませんでした。
 
 
 
人生において本当の死って何ですかね?
  
 
なかなか言語化に苦しむことかと思うんですが、自分の子どもには伝えられるようにしておきたい。
もちろん、その場その時で色んな言い方になるとは思うので、これ!とは言えませんが。
 

 
私は思うんです。
 
 
 
「孤独」
 
 
 
薬物依存の回復施設を日本で初めて創られた近藤さんの言葉を産経ニュースで読みました。
 
 
「薬物依存者の敵は薬物ではなく孤独だ」
 
 
これは薬物依存者だけに言えることじゃなく、人間全般に言えることだと思うんです。
 
 
 
怖い話、この依存って何も薬物じゃなくって「経験」自体もそうなんです。
「経験」なんて生きる上でしないわけいかないじゃないですか。
むしろ、息するのと同義であって学習=経験なわけだから生きる上での必須能力。
 
 
 
危機回避能力もいわば「経験」です。
  
 
 
でも半面。その能力で殺されるのも事実。
(どういうことかこの後説明しますね)
 
 
 
人間の学習欲が、自分自身を殺すんです。
 
 
 
最近の投稿でちょいちょい例に挙げさせてもらっているのですが、
友達のお母さんが孫への教育熱が強すぎて親子関係が崩れた話。

↑この記事ですが改めて記事から引用します。

▼ 過労で悦に入って自己洗脳

これは仕事でも言えると思いますが、
がんばる!が正義とされる日本社会では多く起こりませんか?
 
 
価値を生み出すかは別として頑張って動いていれば良し。
 
 
その場その時で価値は違うのに。
 
 
以前話した友達のお母さんのケースを持ち出しますね。
(拝借します、ごめんね)
 
 
 
そのお母さんは頑張り屋だったそう。
 
 
 
旦那に不倫されても帰りを待ち続けて、
旦那から子ども達の教育資金を貰えなくても仕事と家事と育児をやり抜いて、
子ども夫婦(友人の兄)がピンチな時はまるまる孫の教育を全てやり遂げた。
 
 
とにかく頑張らないと生きていけなかったらしいです。
 
 
でも、その経験値が時には邪魔をします。
 
 
「私は仕事をやり抜いた。後輩指導もしてきた。」
 
「孫だって育て上げた。厳しいことも言ってきたけど立派に育っている。」
 
 
そんな時に友人の子どもにも教育熱が過ぎて・・・。
 
  
 
夜のおもらしが無くならない孫に対して
 
「やーい。おもらしー。」
 
挑発して夜尿症のことを指摘。
 
 
 
挑発すれば(なにくそー)と治るだろうと思ったとのこと。
 
 
 
そんなわけないじゃんね。
 
 
 
でも経験が邪魔をしてしまった。
 
 
 
友人はさすがに自身の母と距離を置き、
改めて「子育てはこちらに任せて、困った時に手を貸してほしい。」と伝えたんだって。
(えらい)
 
 
そしたら「私は兄の孫も育て上げてきた。」
「あなたの子どもには全然厳しくしていない方だ。」
 
 
って言われたそうで。
 
 
 
友人は失望したとのこと。。。
 
 
 
友人には申し訳ないけど、
お母さんは頑張らないといけない環境だったから。
それで自己洗脳しなきゃいけなかったんだろうね。
 
 
 
その洗脳が解けずに、自分の経験を手放せない典型例ですよね。

とまぁ。
 
 
成功体験・経験に依存している状態です。
薬物依存も怖ろしいけど、経験依存も怖ろしい。
 
 
自分の経験を疑えない。手放せない。
 
 
その時に「本当の死」に近づくことになる。
 
 
怖いのはその自覚症状が1mmもないということ。
 
 
 
このお母さんが体力があるうちはまだ取り返しがつくからいいです。
 
 
つまりそれは「価値を生み出す」能力が残されているから。
 
 
 
もしも、上記の老人ホームの80代の女性のように認知症、車いすになっていたら?
 
 
 
「早く死にたい」
 
 
 
自身の持つコミュニティは何も無くなり「孤独」へ。
同じ状況に立たされてることかと。
 
 
 
じゃあ、たとえば逆に友人のお母さんが良好な親子関係をずっと築けていたら?
 
 
 
認知症や身体機能の状況によっては家での介護はできないでしょうが、選択肢の一つにはなっていたかもしれませんね。
 
 
 
さらにそこに多額のお金があったら?
  
 
 
自宅で何人も介護者を手厚く配備させることができたら?
 
 
 
ケースバイケースでしょうが「早く死にたい」確率はグッと下がることかと思います。
 
 
 
とは言え、本当に何も思考できない寝たきり状態になってしまったら?
 
 
 
それは「孤独」でしょう?
 
 
 
安楽死を選択できる世の中になって欲しい。
 
 
 
辛すぎるよ。
 
 
 
生きているだけで何かしらは消費するんだよ。
メッセージを発信してしまうんだよ。
誰かを傷つけてしまう可能性があるんだよ。
 
 
 
後世へ命を繋ぐって形は延命ではないと言い切れます。
 
 
 
自身の「死」をもっても後世へと価値を届けることができる。
 
 
 
年金だってそう。
手を煩わせることだってそう。
自分の名誉=家族が受ける信頼性もそう。
 
 
 
「ありがとう。」と言って死ねることがどれだけ価値があることなのか。
 
 
 
若者の自殺は違うと思いますよ。
場所・空間・時間を変えれば価値を生み出すことはできる可能性が残されているから。
 
 
 
先ほどの友人のお母さんもそうですよね。
 
 
 
まだ「価値を生み出す」ことはできる。
 
 
 
というか若者は差し出せるものが時間(肉体労働)しかない。
 
 
 
それが年齢を重ねて「価値の生み出し方」にバリエーションができて、
知的労働者になってこれると自分の時給も上がるだろうし、
無くならないコミュニティにも参加できてくるだろうし。
 
 
 
人生において本当の死=孤独から備えられるはずです。
 
 
 
それをするための言葉の使い方を学び、人間関係を良好に保ってコミュニティを形成しつつ、
その形となって表れているのがお金であって、FIREを目指しているのではないだろうか。
 
 
 
お金が人と人を繋いでくれるツールになるし、言葉もそう。
 
 
お金がないときは「時間」がその役目を担ってくれている。
 
 
 
実は「生きる」そのものが、言葉であり時間である点が怖い。
 
 
 
そのことを次の章でお話ししますね。

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