前回は「死」を再定義しました。
それを踏まえて今回は「生きる」って何だろう?のお話し。
戦争の話も交えて再定義してみました。
どうぞ!
▼ 生きる=価値を生み出せること
何も喋っていない、誰にも迷惑はかけていない。
「生きる」限りそんなことはあり得ない。
何もしていないくても、何も話していなくても、存在が「発信」になっている。
メッセージを発しているんです。
言語だけがコミュニケーションじゃないのは皆さまも知っていますよね?
非言語的コミュニケーションがあるように、何も話していなくても「発信」している。
つまり、誰かを助けたり傷つけたりもする。
友人のお母さんも「決してそんなつもりでは」みたいなことだと思うんです。
(前章見てない人はみてね)
でも受け手によってはハラスメント=嫌がらせになっちゃう。
だから僕たちは日ごろから「生き方」を学んでいく。
使い方を学んでいく。
使う=投資にできるように。
お金の使い方と同じ。
消費・浪費・貯金・投資
言葉 ≒ コミュニケーション ≒ 生きるに置き換えると。
消費 → 日常の業務連絡
浪費 → 相手を罵ること、愚痴
貯金 → 何も話さない、何考えているか分からない人になる
(今の時代、貯金はお金の価値を目減りさせている)
投資 → 良好なコミュニティ(人間関係)を作る
こういうことだと思います。
使わなきゃ使い方が分からないし、学べない。
しかも、使い方は人によって変わるから学校では教えてくれない。
自分自身で学んでいくしかない。
それが生きるということ。
誰かを傷つけてしまう可能性があるんですよ?
それ自体も悲しいことだけど、
つまりそれはブーメランのように回りまわってきて「孤独」
いわゆる「本当の死」に自分を近づける行為だったりします。
それは怖いよ。
生きるって苦しいよ。
本当に何も考えられず寝たきりになってしまったら「安楽死」も選択の一つに付け加えていただきたい!
そう思うのだって無理ないでしょう?
でも生きなければならない。
今現代の法律では安楽死は認められていない。
(まじで何とかしてくれ)
「価値を生み出せる」から生きれる。
逆に言えば、価値を生み出せなければ死へと近づく。
じゃあ価値って何だ?
金か?時間か?
先ほどの友人のお母さんの話でもそうですが、
良かれと思ってやったことが相手にとっては嫌がらせになるかもしれない。
それぞれに「正義」があって、どれが良いとか悪いとかではない。
「コミュニティ」「人間関係」規模の大小はそれぞれありますが、どれもそう。
親子・家族・友人・仕事・地域・国
国vs国が戦争でしょ?
戦争はどっちが悪いとかじゃなく、両方で正義を語る。
しかも悪いことにそこに経済が発達する要素がある点。
武器商人の存在がいるわけで、富みが発生している。
今のことで言えば、ロシアvsウクライナ
圧倒的にロシアが強いように思えますが、ウクライナの民間人が戦車をぶっ壊すこともある。
過去の第二次世界大戦中、日本の女性たちが竹やりで「ヤ―」と突きの練習をしていたあの武器が、現代では民間人の普通の主婦でもスイッチ2つで扱える「対戦車ミサイル」になっています。
一発2000万円くらいだそうです。
これをウクライナのゼレンスキー大統領はクラウドファンディングで世界中から支援金を集めている。
どう思いますか?
コンビニのお会計の横に置いてあるウクライナへの募金箱や、ウクライナ支援をする報道を見かける度に、そのお金の一部が普通の主婦を戦車に向かわせることになるというのと、戦争をいつまでも続けられる資金になったり、経済が回るという事実を作って戦争が肯定される要素を作ることにもつながったりするのかと思案を巡らせてしまう自分がいます。
話が飛躍しましたが、善し悪しや正義で「価値」は語れません。
善悪なんて人と時と場合によって、まるきり変わってきてしまうんですから。
▼ じゃあ、どうやって価値を生み出せばいいのか?
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聴くしかないでしょ?
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言葉だけじゃなくても、態度や空気やしぐさで。
非言語的コミュニケーションもフル活用して。
傷つけてしまうかもしれない=孤独になり本当の死に近づくことを怖れつつ。
謙虚でいる人ってそれが分かっている人じゃないですか?
お金持ちのお爺さん達を何人も見てきましたが、みんな謙虚です。
若造の私にだって横柄な態度は決してとらない。
自分自身が生きること、存在自体が傷つけてしまう可能性があるって知っているから。
本当の死は孤独と表現しましたが、その先もあります。
もしかしたら自分の後世へと、負債や汚名を受け継がせてしまうかもしれない。
自分の生きたことによって、死んで終わりではなく。
死んでもなお人を傷つけてしまう可能性だってあるということ。
それを金持ちお爺さんは知っているんだと思います。
だからビジネスで成功している人に「聴く」のが下手な人はいません。
常日頃から人を観察して「相手が困ること」を想像しています。
何か嫌なことついてくるなぁ、この人。
という感じで「相手が困ること」を発見できる才能がある子っていませんか?
(いたずら好きな子)
そういう子はビジネスセンスが大ありなんだと思います。
私みたいな超ド級の真面目な正統派で生きていこうとしてしまう人とは雲泥の差です。
相手が困ることに誘導・もしくは予想して、そこに解決策を投じておく。
お悩み解決人になれる=そこには価値が生まれます。
価値の対価としてお金が発生するわけです。
逆に言うと、自分の経験によっての思い込み=経験依存症によって「聴く」ことを失った時。
本当の死=孤独=自身の破滅の道を辿ることになります。
会社の経営で失敗することはほとんどがここじゃないでしょうか?
成功体験にしがみつきたくなるのが人間。
手放せる人、損切りできる人、なかなか感情で生きる人間には難しい行為です。
(話がそれちゃった、戻します)
だから「価値」とは「聴く」ことによってもたらされるものかと思います。
人によって変わってしまうものですから。
それがいわゆる「愛」なのかと。
私が思うに「愛」って「聴く」ことなんだと思います。
愛には形がない。
ちょっと長すぎですが聴いてもらえますか??
(愛の表現について)
患者さまと話をしてピンっときた表現があります。
表現するなら「光」
相手が欲しいもの=壺だとしましょう。
その壺の形は様々。
そこに「光」を当てて形をみる。
なんなら壺の中身は分からないからそこも想像する。
それが愛じゃないかな。
そこは言語・非言語関係ないでしょ?
与えてもらいたいなら「与えなきゃ」
与えるって何か?
相手の壺に光を当てて
「聴くこと」+「届けること」
こっちのさじ加減だけで渡すのは愛じゃない。
そんな風に表現してみました。
善悪の領域なんて無いように、与えるー奪うの領域もあいまいなように思えます。
でも明確にその差はあります。
次の章でそこを深掘りしますね。
第3章では死を明確にしたあとに「生きる」ということ再考しました。
長くなっちゃってすみませんでした。
ここまで読んでくれた方は優しい方。
愛がある方ですね。
ありがとうございます!
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