第四章 今が楽しけりゃ何でもいいでしょ?

生きる意味とは

本当の死とは「孤独」生きるは「価値を生み出す」という再定義をしてきました。価値を生み出すには、善悪の境界線を明確にした方がよさそうです。
 
今回はそんな善悪の話。

▼ 今が楽しけりゃ何でもいいでしょ?

善悪なんてないし、今が楽しければそれでいいじゃん!

 
 
実はこれ、禅の世界でも似た通ったかの表現はあるんです。
 
 
そんなこと言うと禅宗の方に怒られるかな。
 
 
でも実際はそうで。超超超長い時間軸で物事を捉えるならば、全て善悪などありません。
(人が死んだりしたとしても)
 
 
 
物事全て「二面性」があるって前々回くらいにお伝えしました。
 
 
例えば、戦争ばかり人類がして地球環境問題に手が付けられなくなって人類が滅亡しそうになったら、火星移住計画が目まぐるしい勢いで発展するだろうし。
 
 
その計画がダメになり、人類滅亡してしまったとしても、別の生命体が生まれる機会になるだろうし。
 
 
はたまた地球という星の寿命が来て消滅してしまっても、その塵がまた別の星の材料になるだろうし。
 
 
 
生と死は表裏一体。成長と衰退は表裏一体。
 
 
とかく、二面性があることは間違いなさそうです。
 
 
  
ということは自分自身が「楽しい」を選択するしかないでしょ。
 
 
他人様がどうのこうの考えようが知ったこっちゃない!
 
 

 
おれはおれの道を行く!
 
 
 
早くに死んでいったオヤジが言っていた「今を生きろ」と。
 
 
今が楽しければそれでいいんだよっ!!
(※私のオヤジはまだ生きてます、勢いで言っただけ)
 
 
 
でも、それって半分正しくて、半分違うような気がしませんか?
 
 
自分が面白い!楽しい!ということは大切にすべきだし、
迷ったら絶対に自分の面白い!を選択すべきだとも思う。
 
 
だけれど、相手のことは無視して自分勝手に生きて良いって解釈は行き過ぎていないかい?
 
 
前章でもずっと述べてきましたが。
 
 
本当の死=孤独
 
 
生きる=価値を生み出すこと
 
 
 
つまり、楽しく生きたいなら「相手がいる」ことなんですよね。
 
 
相手がいて創めて価値が生まれる。
 
 
生きたいなら相手に何かを与えなきゃ。
 
 
奪っていたら必ずいつかは死を迎える。
 
 
 
ちょっと遠くなる例ですが、仕事の現場でもそれは起きています。 

  
私が以前働いていた整形外科クリニックは小規模で皆が多数の業務を掛け持って、効率的に動いています。
 
 
効率が良い、無駄がない反面。
 
 
投資ができない、かつスタッフが急遽抜けると対応ができない。
 
 
それぞれの役割には適材適所という言葉があると思います。
 
 
 
有能なリハビリスタッフが診療補助から会計業務までサポートに回ります。
(私じゃないですよ?あっ。一応私も有能な自信はあるのですが。
 ↑なんでこんなところで見栄はるかな)
 
 
いや、できるんですよ?
 
 
確実に平平凡凡に業務をこなすスタッフよりも、ハイパフォーマンスで専門分野以外の仕事もこなせるんです。
(その有能なリハビリスタッフがね)
 

 
 
だって、仕事って価値を届けることだからね。
(↑の言葉の意味を分かって下さる方はここまで読んできた文章をよく理解して下さっている)
 
 
 
でもですよ。
 
 
ハイパフォーマンスでできるんですが、やっちゃダメなんです。
 
 
組織の評価が明らかに落ちている。
 
 
 
この時、考えなきゃいけない。「聴く」べき対象は「お客様」です。
 
 
もちろん、スタッフのことも法人のことも考えなきゃいけないのですが、第一優先にすべきなのは「お客様」それを忘れてしまっている人員配置なんです。
 
 
「えっ?リハビリの人がお会計しているの?」
 
「私の担当がコロコロ変わるんだけど」 
 
 
ここ、大丈夫かな?
 
 
お客様は言葉にわざわざしません。
 
 
 
でも、効率よく稼げているうちは成功体験として実績が積みあがってしまうので経営陣は気づきません。
 
 
スタッフが抜けて人件費が削減。収益は維持。
 
 
それならコスパが良くなって効率よく稼げているという数字になる。
  
 
これはまた別の形の友人のお母さんのような、いわゆる「経験依存症」とも言えませんか?
 
 
 
法人、経営陣は適材適所でスタッフに役割を与えていると思っているけれど、それは「奪っている」ことになっています。
 
 
声にならない声を「聴く」ことができなくなった時、与えるから一転、奪うことになる。
 
 
 
有能なリハビリスタッフの時間を「奪っている」
 
 
逆になんでもこなすリハビリスタッフは「奪われている」ことにも気付いていない。
 
 
 
自分の評価が法人から上がったところでその先には未来があるのか?
 
 
もしかしたら、その奪われていることにより、経営主導権を握れた暁に体制を改善させられれば、奪われたことは一転、与えられていたということになるのかもしれない。
 
 
 
例としては難しかったかもしれませんが、与える―奪うの領域ってこんな感じですよね。
 
 
ただそこには「愛=聴くこと」があるかどうか。

今が楽しければいいじゃん!は「相手」があって初めて成立するもの。与えていると思っても、奪っているかもしれない。奪っていけば「本当の死=孤独」に近づく。
 
 
人生楽しく!面白がりたいですよね!

 
 
 
次の章では奪われないためにが本当のFIREだよね。といっちばん初めの話に戻っていきます。
 
 
宜しくお願いします。 

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